やーぁ…。すごいタイトルのブログ書いちゃった。
じつはコレ、星野源さんの「私」という曲の歌い出しなんです。なかなかにショッキングな歌詞ですよね。笑
最近この曲に聴き入ってしまい、鬼リピを繰り返す毎日で…。
なので今回は、僕が星野源への愛を語る、訳のわからん文章になります。
🎵星野源 - 私
※歌詞全文はこちらのサイトをご覧ください。
変わりゆく音楽観、変わらない素朴さ
ファンのかたならわかるかもしれないですが、さいきん源さんの曲の雰囲気ってガラッと変わりましたよね。テクノやラップの要素などを取り入れ、新しいポップ・ミュージックの姿を模索する、先進的なJ-POPアーティストの1人といえます。
ただですね…、初期曲からずっと変わらないのが、歌詞の素朴さなんですよ…(主観)
ラブソングでも「ハイッ💛恋してますッ💛」っていうよりかは「身近にいる大切なひとを、心の底から大切にしたい」と思えるような、あたたかくてやわらかいメッセージが染みる。
🎵星野源 - くだらないの中に
※歌詞全文はこちらのサイトをご覧ください。
ソロデビューした翌年の2011年にリリースした「くだらないの中に」では
僕は時代のものじゃなくて あなたのものになりたいんだ
とあります。10年経ってもどこかその雰囲気を残している、本当に美しいなぁ…。
僕が特に注目したいのは、同曲の
魔法がないと不便だよな マンガみたいに
日々の恨み 日々の妬み 君が笑えば解決することばかり
というフレーズです。社会の中で生きてて「くそっ」と思う嫌な感情なんて山ほどあるけど、身近な「君」が笑うだけで、なんか解決した気分になる。
おそらく「君」は女性とのお付き合いをモチーフに書かれたんだと思うんですが、自分の場合は友達の笑顔が「まさにコレだな…」と思います。そんな友達がたくさんいて幸せだぁ。
…で。本題に戻りますが。
この「『くそっ』と思うこともあるけど、『君』と過ごす時を大切にしたい」みたいなメッセージが、そのまんま「私」の歌詞にも込められているなと思いました。
この鼓動は何のためか
たとえば。LGBT当事者として生きるって、僕にとっては正直疲れることまみれです。笑
社会から浴びせられる視線とか発言に敏感にならざるを得ないというか。
社会に対して「くそっ」と思うことだってまあそれなりに経験するわけで。
ここ数カ月の間も、ジェンダー問題に関する聞き捨てならない発言がいろいろありましたね…笑。よくもわるくもいろいろ盛りあがったなと思うのですが。
あの時期、自分はとてもつらくて。この発言を聞いた中高生とかの当事者はどう思うのだろう。社会にとってLGBT+はどんなイメージでとらえられてるんだろう。当の発言者はどんな思いでこの社会を見つめているんだろう。いろいろなことを考えましたが、一つ得られた結論としては、
誰も幸せにならないゴタゴタがまた生まれてしまったな。という感覚。
これをきっかけになにかがプラスに働いてくれたならうれしいんですけどね。社会に潜んでいたいろんな人のいろんなマイナスの感情が凄まじく表出するさまに、僕は愕然とするばかりで…。
でもこの歌詞の意味を浴びるように熟考したある夜、自分の心の中にあった行き場のない怒りや不安が音を立てて消えていきました。
彼の町見や 美し火や 下等どもが 涙の川
この鼓動は何のためか 虫は消えた
私を見や ここに居ては 希望どもが 飽きれたまま
死ぬのだけじゃあんまりじゃないか 喉は枯れた
この曲の歌詞は、ご本人もラジオで「ツルツルッとできちゃった」と言っているように、彼の思考の断片を繋ぎ合わせたような詞なので、解釈のしようはありまくりなんですが。
ひとまずこの詞を読んで、
「ところで自分の鼓動はなんのためか」
と思った時に、いま自分を必要としてくれている身近な誰かの為になろう。そうやって生きようと思いました。そう考えると僕が生きている意味もすっと腑に落ちて、怒りや不安などといった感情とも距離を取って向き合えるようになった。
純粋に1人の人間として「そう生きたほうが面白いな」って。「虫は消えた」の意味は、おそらく「腹の虫が消えた」ということ。
「殺意や憎しみの虜になる前に、燃え盛る苛立ちも対岸の火事みたいなものだと思って、その場を離れたほうがいい。」といった解釈をした興味深い記事がありました。この解釈がそれなりに当たっているなら、「殺意や憎しみの虜」たちにあてがった「下等ども」という歌詞はかなり辛辣な表現ですね…、
社会で巻き起こる悲しみや憎しみに対して「自分には関係ないから知らんぷりしよっ。」ってことでしょうか。LGBT+に関する社会問題に置き換えて考えるならば、その場を離れる行為はある意味で当事者性の放棄になります。なんというか、当事者にとってはすごくためらわれる行為なのかなとも思います。
希望どもが飽きれたまま
死ぬのだけじゃあんまりじゃないか
ただ、この手の議論ですごく難しいのは「もし自分がつらい思いをするなら、LGBT+というアイデンティティを背負いすぎる必要はないだろう」という点だと思います。ひとりひとりの当事者が、ある人の言葉にふれ、生き方にふれ、なにかに価値や希望を見いだして日々を生きている。そうやって人知れずただ生きていて、なのに一部の人から思いがけず心無い言葉をもらうこともある。その時に、その問題に正面から立ち向かうのか、その問題を回避するのか。
少し究極的な結論にはなるけれど、自分はどちらの判断も肯定できる人間でありたいなと思いました。結局ひとは、自分という人間が希望を見いだせる生きかたを各々選ぶしかないのかもしれません。自分が望まない選択をした先で、希望も持てずに死ぬのだけじゃ、やっぱり僕も「あんまりじゃないか」と思うので…。
難しい問題だけど「LGBT+だからこんなふうに行動しなきゃいけない」は成立しないってことですね。
私にとっての「私」
LGBT+当事者に限らず、自らの生きかたを考える時間ってすごく大切なものだと思います。そして、自分の生きかたにヒントをくれた大切な存在がいるはずです。それが家族や友人だったり、本だったり音楽だったりするわけで。自分はいままで星野源さんの音楽に強く影響を受けてきたなぁと思います。
みなさんは、自分の生きかたを考えるとき、誰の存在を思いうかべますか?
文 葦澤智史(20・ゲイ) 虹の集い執行部 好きな学問分野は哲学。高3から実存主義にハマり、来年はハイデッガーの本を読むぞと心に誓っている(本当に読めるかはわからない)。文学部に所属しなかったことをちょっぴり後悔している北大生。
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